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「富士山の記号論」
デンニッツァ・ガブラコヴァ (ブルガリア)

一.富士山の無数の複製
  日本という国に来るかなり以前から富士山の円錐を身近なものとして感じていた。富士山という山の存在を当たり前の事実のように思っていた。私の脳裏に沈殿しているイメージの源を探れば、やはり私の家族の日本人との友好関係がはっきりと見える。私の家は日本にいる友達と手紙の交換していたおかげで、私は子供の時に日本から届いた葉書や封筒の切手などをよく目にしたことがある。そういう時に無意識に私にとって富士山は日本という遠い国の印になって、そしてこの山が聳えている下に不思議な日の出の国が広がっているだろうとぼんやり想像していた。日本に初めて来てみると子供の頃見た富士山の絵の原型を発見した。昔見ていた葉書や切手などは葛飾北斎の浮世絵の縮小されたコピーだったようである。その内、最も目立っているのは富嶽三十六景の中の二つである。一つ目は富士山のクローズアップである。赤褐色の山はその麓にある米粒程小さい木を下へ下へと追い払ったかのように偉大に聳えている。森の藍は空の色がそのまま地面に散ってしまっているように見える。そして、火山の火口から零れている雪の簾は、まるで空を流れている雲の起源を指しているかのように見える。古代の文学が集まっている万葉集の歌を思い出さないではいられない。「燃える火を雪で消し、降る雪を火で消して」という言葉は赤み掛かった山の姿の潜在的力を発揮している。もう一つの北斎の絵は先の絵の正反対の構造を持っている。ここには富士山は、荒れている波に弄ばれている漁船という前景の奥に沈んでいる。青い胴が白く被されている山の姿は泡立っている波の一つのように見えるが、実は富士山は波や船と違って、唯一不動のものである。この二つの絵を今でも画帳の中で偶然見るとどうしても深い感動に捕らわれないではいられない。見事な作品である。日本芸術の自慢の一つだろう。
  さまざまな角度から姿を見せる富士山の魅力は日本の美術を越えている。十九世紀末のフランスの画家がパリの象徴になったエッフェル塔の意味を解読するために、北斎の創造した鋳型を借りた。そのように《エッフェル塔三十六景》が現れた。その連作には富士山が直接姿を見せないけれど、この連作の上に影を落としている。なぜならば、そこに富士山が欠けていることが意識されるからである。そこに北斎の天才的な富士山の描き方だけではなくて、富士山というトポスの発信している神秘的で複雑な魅力が実感できる。ある国のシンボルになって、その国のさまざまな風景を軸のように共通させている不思議な名所はまだたくさんあるが、富士山と日本の象徴的な繋がりが現代の芸術にも登場している。一つの印象深い例としては黒澤彰監督の《夢》という作品の中のエピソードである。紅に染まった山が燃えているイメージはエピソードで繰り広げられている悲劇の記号となっている。原子力発電所が持っている危険性というごく具体的な関心から現代の工業発展と社会の行方の問いかけに至るテーマである。しかし、この日本の運命、あるいは人類の運命の悲劇の舞台設定として富士山が使われたことは改めてその象徴的効果を実感させる。黒澤監督のこの作品は映画評論家に「生きている絵」と呼ばれている。正に以上のエピソードの中のストーリーや内容自体より、山の燃えている姿が絵として印象に残ってしまう。
  このような大きい幅の富士山の利用の他に本当に細かいところに使われている。例えば、水羊羹の箱に小さく描かれている富士山を見ることもある。

二.脳裏にある姿と重ね合わせる時の不思議
  このように無数に複製された富士山をあらゆる場面で目にした後、本物を見る時に不思議な気分に捕らわれてしまう。既に写真のネガのように山の姿は脳裏に焼き付けられているからである。青春十八切符で京都から東京へ行く途中、電車の窓に現れた富士山を絶対見間違えることはない。しかし、あまりにも持っていたイメージと理想的に重なっているので、蜃気楼ではないかと目を疑ってしまう。あるいは、東京駅から早朝西へ出発する時、彼方に微細な青い三角形が冬の靄から浮かんで、行く方向を矢印のように指してくれている。電車の中で二三時間を過ごしたら、昇っている朝日で冷たい空気が透き通るようになる。窓の外を覗くと富士山はだいぶ近付いて、桃色の光を浴びながら立体的に立っている。
  日本の先進的な雰囲気を表しているお台場という街を東京の本部と繋ぐ海の上に走っている電車がある。「ゆりかもめ」という古風な名前を持っているが。その電車に乗って、晴れた日にちょうど電車が大きく曲がる時、一瞬富士山がきらめく。その時は奇跡が起こっているかのように感じる。
  このようなことを考えるとジョン・フローという学者の『名所論』を思い出す。フロー氏の論文は松尾芭蕉の例で始まっている。芭蕉の俳句や『奥の細道』の中では景色自体と景色を見る前の詩的な知識の間に生じる調和関係が注目されている。フロー氏の論文を読むと名所に対しての複雑な感情を記号論的に分析するためには、三角形の図が役に立つ。三角の一つ目の角に〈実際に存在している景色〉を示して、二つ目の角は〈景色の複写〉、そして三つ目の角に〈観光客の頭に既に成り立っている象徴的なイメージ〉である。先程取り上げたように、二つ目の角に当てはまる富士山の複写は頻繁に日常生活に現れている。このような複写はそのまま山の姿を描いているので、特に写真の場合には本物の富士と写真や絵の富士は交換可能な関係になる。他方、三つ目の角に当てはまる富士山の象徴的なイメージは古代の日本文学や芸術によって洗練や美化されている。そして、富士山が綴られている芸術表現の文脈から富士山の周辺にあるさまざまなイメージが加わる。外国で流通している日本の紹介を目指す教材からも、富士山の象徴的な価値が醸し出されている。フロー氏の説によれば、本物を見る目はどうしても同時に想像上のイメージを通していることになる。言うまでもなく、日本の技術の高度発展と繋げることさえできる。例えば、2002年の秋に行われるロボットのコンテストの名前は「富士山の頂きを目指せ」という。
  しかし、富士山の無限の魅力は富士山の実体性から沸いている。架空の空間ではない。富士山は実際に日本の真ん中に立ち聳え、登ろうと思えば、それも不可能ではない。

三.日本の象徴/山のイコン
  さらに深く探ってみると富士山を記号として読み解くと、そこに二つの側面が交差していると思う。周知の通り、記号論の中で記号が三つの種類に大別されている。印という単純な記号がその一つである。電車の窓から見える富士山の様子で東海道線のどこの位置に自分がいるかは推測できるだろう。これは印としての富士山の役目である。もう一つの記号の種類は象徴である。象徴は多様な文化的文脈で発生している。例えば、富士山は日本の美の象徴である。この発言の中に日本と富士山の間に外見や性質の類似性がほとんどない。しかし、日本の伝統的な文化や現代文化によって以上のような象徴的な繋がりができたのである。一方、記号の中でイコンという記号もある。イコンは類似性に基づいている。この間、スコットランドのジャポニズムの見せる写真を見た。庭園の中に、高さ1.5メートルぐらいの富士山があった。日本から距離的に遠いスコットランドの庭園にある富士山の模型の例を見ると、その模型は富士山のイコンである。
  でも、富士山自体の姿はそのまま抽象的な意味での山を表しているのではないか。世界中にはさまざまな高さと地形の山々があるが、山というものを一般的に描こうとすると一番単純な描き方で三角形になるだろう。粘度で造形すると円錐になるだろう。漢字の〈山〉は少し違うが、その中でも中心の一番高い点と両側のもっと低い点が見られる。富士山の姿は完璧で理想の山の形に限りなく近い。
  山という概念がまた非常に深い。克服しがたいところ、達成しがたい目的をはっきりした形で表している。古代の万葉集の中でも富士山の形容のしかたを見てみると、「雲も行く手を阻まれ、鳥も上ってゆくことができず」というイメージが浮き上がっている。少し違うメッセージを発信しているのは黒澤監督の《夢》という作品の別のエピソードである。山の吹雪に襲われた登山者が死の攻撃を乗り越えて、朝一番早く目にする景色は山の頂上である。そして、その背景に勝利の音楽が流れている。
  ヒマラヤ山脈の麓で活躍していたロシアの山岳画家リョリヒも山の頂きに深い関心を示して、一種の頂上の哲学を生み出したと言える。人生の道は平面を通るべきではなく、坂を上っているはずである。そのような時には、道にある邪魔な石などは、ハードルではなく、より上へ上へと登れるための階段になっている。なぜなら、ガラスのように滑る斜面は上れないからである。

四.山登り
  つい最近印象に強く残った言葉を聞いた。ある外国出版の日本を案内するガイドブックによると富士山は見るのには素晴らしい景色でありながら、登ると巨大な灰皿にしか見えない。要するに、その場での美的価値は高くないという意味だろう。けっして褒め言葉ではないが、その文句の中にまで富士山の魅力が浸透しているように聞こえた。以前火を吐いた山に対して「灰皿」という言葉は不思議に繋がっているからである。しかし、それにもかかわらず、あるいは、そのおかげで私はますます富士山に登りたくなった。灰色の石道はなぜそんなに魅力的に感じられるのだろうか。それは登る時に灰色の石しか見えなくても、山道の石の一つ一つがジグソー・パズルのかけらになり、頭にある富士山の完璧な姿に並び替ええられてしまうからである。
  旅行会社に足を運んで、日本国内旅行の人気の高い「富士登山バスツアー」のパンフレットを見に行ってみた。「お鉢巡り」というコースの名前は可愛いと思った。古代でも富士山は器に例えられたことがある。それは茶臼との比較である。「天下一のご来光富士登山」という神秘的なツアーもある。山の陰影は羽毛のような雲の上に横たわっている。そして、東の方に太陽が山の斜面と麦茶色の空の境目から光を注いでいる。日の出る国そのもののイメージではないか。別の写真では飛行機からでも見ることのできない空中風景が写っている。それは山頂から望む「雲海」である。雲の海という言葉は神話のように響いている。そして、もろもろの色の前景と富士山の姿の奇麗な写真も載っている。赤い芥子や黄色い向日葵や紫色の小さな花といった装いに富士山は次から次へと着替えている。
  険しくて石だらけの山道を見ると登るのは不安になってしまうが、登る時の苦労が登頂を達成した時の幸せと引き換えられると思う。そして、頂上を克服した者はより強く、心がより潔くなっているだろう。そして、このような山登りは頂上への道でもありながら、自分自身の深層への旅にもなれるだろう。本当に身近にこんなに素晴らしい挑戦、そして自己挑戦のための優れた機会が毎夏日本の旅行者が与えられているのである。私は近い未来に絶対にこの富士山に登りたい。その時は「私の見た日本」のイメージがより充実した体験の結果となる。そして、日本という謎を解くために、富士山という日本の一つの記号の、文字通りに、中に入ったことになる。



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