一般財団法人 京都国際文化協会(Kyoto Intemational Cultural Association)
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「友情という保険」
金麗實 (韓国)

 昨年8月の真夏、4月に京都に着いてからやっと落ち着き、友達も少しでき、緊張が解けたころ。私は留学してから初めての夏休みを思い切り楽しもうという思いでいっぱいであった。その日も私は、祇園祭の後すっかり仲良しとなったクリスチャン、ジアンカルロと、見どころでいっぱいである不思議な古都を探検するため出かけていた。天気は崩れつつあったが、ぽつんぽつんと雨粒に当たりながらも三人は晴れた気持で自転車に乗って街を走りぬけた。
  もう少しで目的地に至るころ、クリスチャンに次いで私が横断歩道を渡ろうとしたとたん、右横の白い車が急に左折してきて私にぶつかった。その衝突で私は自転車ごとがたんと倒れてしまった。自転車に組み敷かれて動けなかった私は、運転者が車から降りてきて「大丈夫ですか。」と聞いて助けてくれるのを待っていた。しかしその車からは誰も降りず、あえて速度を上げ走り出してしまった。そのとき私は横断歩道に横たわったまま、自分の右足が車のタイヤに踏みにじられるのを目の前で見た。1秒も経たないうちに起こった惨事に痛みどころか、ただ頭の中が瞬間真っ白になった。どうしようもなくぼんやりと、すでに遠くなった車の方を見つめてから気がついたら、私は流れる車の列を止めさせて赤信号の道路の上で横になっていた。友達と周りの人々が「歩けるか。」と聞いてきたが、彼らに引き起こされ足をついてみたら、踏みにじられた右足からは沸き立つ鍋のように激しい痛みが涌いてきた。周りの人の助けで、壊れた自転車と歩道に移された私は警察に申告して救急車が来るのを待った。目撃者の中には幸いに轢き逃げ車のナンバープレートを見たひとも、運転者の格好を覚えていたひともあり、すぐ捕まるはずだから心配しないでと皆が暖かく言ってくれた。待っているうちに雨粒は小雨となり街はところどころ傘で色づいていった。クリスチャンが痛まないようにけがをした足を支え、ジアンカルロが濡れないように傘を差してくれた。
  ところがその後私に起こったことは、ただ運が悪いだけだとはいえないくらいの悲劇の連続であった。下手なドラマより馬鹿げた出来事に私は何回も唖然として言葉が出なかった。白昼に青信号の横断歩道の上で車に轢かれたくらいは、後に続いたことにくらべると大したことでもなかった。その日3時ころ事故で足が折れた私は、夜中になってやっとベッドに入って休むことができたが、それは病院のベッドではなかった。今から書くことは「人生はドラマ」という言葉に最も当てはまる一つの例だろう。
  この荒唐無稽な喜劇の幕を開けたのは、雨上がりにレインコートまでしっかり着込んで現場に現れた警官であった。轢き逃げ事件で被害者がけがをしていると警察に届けたので、救急車を待っていた我々は、のそのそと自転車で近寄ってくるたった一人の警官を見てなんとなく狐につままれたような気持になった。交通事故では頭を打ったり、骨が折れたり、或いは内出血とか、外傷はあまりなくても深刻な場合がいくらでもあるので、見た目は大丈夫に見えても念のため被害者を病院に運んで検査するのは常識であろう。意識があり出血がひどくないという報告で警察は単純なけがだと判断したのかもしれないが、出血はあまりなかった私の場合も実際レントゲンを撮ってみたら手術を必要とする重症であった。
  自転車の警官の報告でパトロールカーと救急車が到着したが、手術をうける前に私はまたいくつかの関門を通過しなければならなかった。救急車で病院に行くうち、まさか自分が手術を受けるなんて想像もしていなかった私は、友達を安心させるため冗談をいうくらい少し余裕があった。もう2回も書いたのに、救急車の中でまた名前、住所、国籍、などなどの書類を、血圧を測っている手にまでボールペンを握らせて書かされたとき、「血圧上がりそうだね。」とか。やがて着いた救急病院の診察室で看護婦がタイヤの跡が鮮明な右足を消毒したとき、「証拠が消されてしまった」とか。だから手術をしないといけないという診断結果を医師から聞いて友達に伝えたとき、彼らは「冗談ってもう分かるからやめてよ。」とからから笑った。これから家族もいない外国の病院で手術を受けなければならない私こそ、これが冗談であってほしかった。しかし嘆きに沈む暇はない。救急病院には手術施設がないため再び救急車に乗って別の病院に運ばれたのである。救急病院の推薦状を持って新しい病院に移ったが、そのまま入院はできず、着替えてからまた同じ検査を繰り返された。
  患者たちの痛みや心配を深めるようにくすんだ廊下で所在なく診察の結果を待っていたら、時間はいつの間にか午後8時。待つ時間が長くなるほど赤黒くふくれあがった足が気になるばかりであった。足の痛みと疲労に覆われて倒れそうになったとき、私はようやくお医者さんに会えた。しかし待ちに待った医師は「今は入院室が空いてないので、家で3日ほど待ってください。」と耳を疑う話をした。時間はもう9時近い。こんな時間に他の病院に移るわけにもいかないので、私は仕方なく折れた足に応急的な処理だけを受けて家に帰るしかなかった。いつも自分の妹のように面倒を見てくれた安さんが今回も病院の手続きなどを助けてくれた。彼と一緒に家に戻って彼の作った冷麺を食べた。彼は「どんどん食べなよ。」と勧めてくれたが、一日中水も飲む暇がなくかさかさしたのどに麺はよく通らない。汁ばかり飲んでいる私を見て安さんは「よく食べるとすぐ治るよ。手術もそんなに心配するな。」と言ってくれた。そのとき目に涙が浮かんだのは、いつも彼が冷麺の中にたっぷり入れるからしのせいではない。事故のこと、手術のこと、そして電話で話したら言葉に余って涙を流すだけであった母親のことなどが思い浮かんで、私は涙を飲み込んでいるのか麺を飲み込んでいるのか分からないまま食事を済ませた。
  どこから聞いたのか早くもお見舞いに来てくれた人々たちが帰ってひとりになったのは真夜中だった。何が何だか分からないくらい忙しくて気が付かなかったが、ふと見たら臨時にギプスを巻いた足は色が変わってまるで象の足のようにぷっと腫れていた。病院からは何の薬ももらっていないので、休めばいいだろうと思い我慢して寝ようとしたが、熱が上がり痛みが増して到底眠ることができなかった。それで仕方なく救急室に電話をかけた。すると看護婦は「どんな種類でもいいから近所の薬局で痛み止めを買って飲んで、明日病院に来てください。」と言った。もちろん夜中1時に開いている店もないし、あったとしてもこんな足では行けるはずがない。どうして痛み止めを処方してくれなかったんだろう。寝ている友達を起こそうかどうか迷ったが、結局私はどこかにしまい込んだ覚えがある月経痛の痛み止めの方を選んで、この喜劇のフィナーレを閉じた。
  このような紆余曲折を経たけれども、手術が終わって、犯人が捕まり、保険が効いて、また日常に戻れていたら、たぶん私がこのエッセイを書くことはなかっただろう。事故の翌日二人の刑事が私の家に取り調べに来た。それから調査が始まり友達や目撃者たちは何回も警察庁まで呼び出された。大変だっただろうが、皆が私のために苦労をしてくれた。事故一週間後病院を訪ねた刑事は、容疑者が既に何回も犯罪を犯しており、無職で一定の居住地もなく点々としているから逮捕は非常に難しいと言った。そのうえ無免許で無保険の車だから保険は効かないし、容疑者もその家族も支払能力がないので、捕まったとしても示談金はもちろん医療費などもらえないから他の方法を探したほうがいいと教えた。何の保険にも加入していなかった私は、まず学校や交通事故相談所などに問い合わせてみたが、はっきりした解決方法は出なかった。交通事故は例外というので留学生の医療費補助制度も利用できなかったし、轢き逃げや無保険車の被害者を救済する政府保障制度もあくまでも最終的な措置であるので私はとりあえず犯人の逮捕を待つしかなかった。目撃者があってナンバープレートまで知っているのに、犯人がたやすく捕まらないというのは納得が行かなかったが、結局犯人は事故後7ヶ月も過ぎた今年3月に逮捕された。
  病床で毎日痛みや注射の針と戦っていた間は早く治りたいという願いだけであったが、痛みがよくなるにつれ心の心配は増していった。退院してもギプスが巻かれた右足のため2ヶ月間何もできず家にこもって毎日を過ごした。家の中を松葉杖で歩く有様だったので、買い物はもちろん掃除や洗濯などの家事の全ても誰かに依存しなければならなかった。そのとき力になってくれた人々のことは未だに忘れられない。事故のときから私が自分の足で歩けるまでずっと私の足になってくれたクリスチャン。通院のときはもちろん気晴らしのための散歩まで、彼は険しい家の階段を何十回も上り下りしながら私を背に負って運んでくれた。ユーモアも兼ね備えた料理の達人、ジアンカルロ。彼は毎日彼の「お城」から降りて「遠い山」の私の家まで来て、ユーモアと愛情の込められた栄養たっぷりの夕ごはんを作ってくれた。そして事故の後から学校、病院、警察庁、交通事故相談所などなど山ほどたくさんある書類仕事や手続きを私の代わりにやってくれた三沢さん。彼女は外国人に不利なシステムや薄情な仕打ちに対して憤慨し、不安と精神的な疲労に覆われた私をいつもやさしく慰めてくれた。その外にも不幸な事故のことを聞いて多くの方が世話を見てくれ、励ましてくれた。
  このエッセイを書いている今、私は再手術を受け、また家にこもっている。事故処理は今年3月にようやく終了した。盗みを働きたまたま捕まった犯人を捜査する過程で、余罪として轢き逃げ事件が明らかになったのである。しかし警察が言ったとおり無保険の犯人は支払い能力もなかったので、結局私は全ての費用を自ら負担しなければならなかった。更にこの事件は警察庁では解決となったが、検察庁に移って再び検査されることになり、その過程で犯人の虚偽陳述によって被害者の私と事件の目撃者一同は再び取り調べのため呼び出された。心身ともに傷ついた私の悔しさはさておいても、事件のことで私のために尽力を惜しまなかった目撃者たちや周りの人々に申し訳ない。ようやく今年5月の裁判で事件が、7月に再手術が終わり、私は始末をつける気持でこのエッセイを書き始めた。そしてエッセイを書くことを通じて過去を追体験しながら、私は、事故は不幸だったが自分は決して不幸ではなかったことに気がついた。外国で事故に遭って家族も保険もなかったが、私には友達の友情や周りの人情があって連続した苦難に打ち勝つことができたのである。「情けは人の為ならず」という言葉の意味以上に、無条件の友情と人情を恵んでくれた人々にこれからは私が力になってあげたいと思う。



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