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「私のJapanese Mother」
陳 曦 (中国)

 私の日本人との本当の意味の交流はある女性を通じて始まった。今回改めてこれまでのことを振り返り、文章に表すことでこれまで、一方的に受けるだけだった日本のお母さんの限りない優しさへの感謝の気持ちとしてあらわしたいと思う。お母さんがどこかで聞いてくれていることを切に願う。
  私は中国人にとっても辺鄙な新疆という場で生まれ育った。運と偶然のめぐり合わせで大学にも進学でき、日本語を専攻することになったが、日本と日本人は私にとってなおも遠い存在で、日本と関わろうという実感は持てなかった。お母さんに出会って日本を訪れるまでの私の日本に対するイメージは戦争の侵略や世界の中の先進技術国、富士山、桜、生食と言った外面的なものだけだったが、お母さんと出会って、日本で留学して私は日本、日本人というものが生活に入り込んできた。
  まだ日本に来ることができるとは思っていなかった大学三年のとき、私は中国の西安で日本語の旅行ガイドをしていた。そのとき、中国に観光に来ていて偶然知り合ったのがお母さんとご主人だった。そのときの私はまだつたない日本語で丸暗記した名所案内を棒読みで話していて、聞くほうも大変だったろうと思うが、そんな私の心をお母さんは、「そんなことよりも中国の人はどんな生活をしているの?」とか、「どんなファッションに興味があるの?」とか答えやすいような質問を聞いてやわらげてくれたのが印象的だった。旅行で仲良くなって住所交換はしたものの、表面上だけで実際これから友達になるなんてことはないだろうと思っていたため、教えた住所も旅行会社のもので、自分が大学生ということも隠していた。第一、旅行会社からも自分が大学生だと言わないようにと言われていた。そのときは仲良く写真を撮ったりしても、これまでのとおり一回きりの出会いと別れと思っていたが、一週間後、旅行会社に日本から手紙が届いたという知らせがあった。見てみると、あの日本人の女性だった。もともと私は筆不精であるが、にもかかわらず彼女は親切に私を気遣ってくれた。私は大学生であるということを隠していたことが恥ずかしくなり、手紙で実は日本語学部の学生であることを正直に打ち明けた。彼女には私と同年代の娘さんがいたということと、私がすでに母をなくしていたことから、彼女は自分をよければ日本のお母さんだと思ってねと言ってくれた。私たちは仲良くなって文通を始めた。めちゃくちゃな私の日本語の手紙にお母さんはその都度一々、添削して返事をくれた。時々、お母さんは大学の寮まで国際電話をかけてくれた。「I am her Japanese mother」と電話をとったルームメートにたどたどしい英語で伝え、その同じ部屋の仲間は私に日本人の母親がいるということに羨望の眼差しを向けていた。
  そして卒業後、私は日本に留学することになって、彼女は文字通りお母さんのように私の世話をあれこれとしてくれた。日本につてのない私が来日したときには一番にお母さんが空港に迎えに来てくれ、名古屋での部屋探しを手伝ってくれた。お母さんからの荷物はお米から洗剤にいたるまで細かいところまで気が利く日本人ならではの繊細な優しさで、私を包み込んでくれた。異国の地で生活することは寂しいので、お母さんはそんな私とよく電話で話してくれた。休みにはお母さんの住む京都や、大阪に旅行へも招待してくれて私は日本での生活を目一杯サポートしてもらった。本当の親と一緒にいるような安心感を与え、私を家族の一員として迎えてくれたのだ。ある時、お母さんは言った。「中国の人はひどい戦争があったから、日本人のことをあまりよく思わない人たちが大勢いるけど、やっぱり少しでも多くの中国の人に日本にいい印象を持ってもらいたい。優しい人もいっぱいいるんだって知って欲しい。」しかし、お母さんは日本人である前に私の親友だった。中国にはお母さんが言うようにただ日本人であるからとか、日本の製品であるからという理由だけで嫌悪感を抱く人も少なくないが、これは誤った考えである。いいところはいいところ、過去の間違いは過去の過ちとして切り離して付き合っていかなければ、未来に希望をもてないのではないかと思う。それにはやはり、個人レベルからでもいいから、お互いのことを知らなければならない。そういう点でお母さんはすでにそれを実践していたのだ。お母さんは私だけに優しいのではなく、私の友達にもよくしてくれた。例えば、一時帰国するときには私の好きだと選んだお菓子を山のように送ってきて、友達にお土産としてほしいと渡された。お母さんはみんなのお母さんだったのだ。お母さんがいる場所はみんなが和やかになる、会話も弾む、そんな穏やかな日本の家庭を見た。
  名古屋では物価の高い日本でバイトしながら、日々の課題にも取り組むという忙しい毎日が過ぎていった。日本に来てから一年ほどたったころ、お母さんと突然連絡が取れなくなった。ちょうどその頃私は盗難事件に会い、精神的にも不安定だったが、お母さんの携帯が通じない。気になったため普段はあまり連絡しないお父さん(お母さんのご主人)に連絡を取ってみた。電話口では煮え切らない返事をしていたお父さんに、一度会ってゆっくり話がしたいと誘われて駅の喫茶店で待ち合わせることになった。そこで聞かされたのは突然のお母さんの死だった。私は訳がわからなかったが、別れ際に普段はあまり感情を外に出さないお父さんの背中が急に老け込んで小さく見え、それを見た私に、言いようもない感情が押し寄せてきて、私の目から涙がとどめもなく流れ出した。信じられなくてそれを事実として認めるのも怖かった。お母さんは日本人である前に日本で私の一番大切な人だった。言葉や習慣、文化など表面的な差を越えた心と心の付き合いをしていたのだ。かけがえのない人を失ってしまった悲しみは言葉にならないほど深く、癒しようがない。ずっと私のそばで励まして支えてくれると信じていたのに。今までお世話になりっぱなしでその御礼もまだできていないのに。
  お母さんが亡くなって三ヶ月、一度訪れようとしていたお墓参りに京都へ行くことを決意した。お母さんの一家の家は以前と差がありすぎてショックを受けた。お母さんがいなくなってから家の雰囲気はがらりと変わり以前のような生活感の感じられない、沈んだ部屋の様子だった。また、今まで私は手厚くもてなされてきたのだが、それを行う中心的人物はもはやいなかった。今までお母さんがしてきたことをいきなりお父さんや娘さんたちがするのは難しいが、それでもやっぱりお母さんの存在の大きさが際立った。日本の家庭、特に五十代前後の世代は父親は仕事一本で、家の事はほとんどしないのが一般的だ。母親が子育て、料理から家の事はみんなするためにその負担が大きいのではないかと思う。そのため、後に残された家族は自分が何をしていいのかわからずに右往左往してしまうこととなる。中国では女性も仕事を持っていることが普通だからか、男性と女性は家事を分け合うものだ。主婦という制度がいいか悪いかは別の問題としても、やはりお互いに配慮が必要だと思う。お母さんが「お父さんの仕事が忙しくてね」、と電話でたまにこぼす愚痴を思い出した。少し日本の家庭の残念なところを垣間見たような気がした。しかしながら、裏を返せばそれだけ日本のお母さんは懐の大きい、いるだけでもみんなを包み込んでくれる、そんな存在であると実感した。
  あれから一年が経った。今では日本はもうすでに私の第二の故郷だ。初め来たころは、お母さんが勧めてくれるからしぶしぶ食べていたが、どうも味が薄いなと感じた日本食も中国に一度帰ると懐かしく食べたいなと思ってしまう。もちろん日本にいるときは中国のものや人が懐かしく感じるのであるが、私の場合は中国にいるときも日本のものや人が恋しいのだ。そういう意味では私をこんなふうにしてくれた日本はお母さんの心のように懐の広い国だと思う。中国にいて違和感を感じることがあるほど日本の生活に溶けこんだ。日本人の細やかな配慮や心配り、きれいな空気、行き届いた施設などがそこにはないからである。
  私にはその後も数多くの日本人の友人ができた。彼らはみんな親切で苦しいときにはいつも私を支えてくれる。中国に興味を持つ人も多い。わたしは日本という国に留学できて彼らと、お母さんと知り合えて本当によかった。見聞が広まっただけではなく、自分の心も強くなったし大きくなったと思う。人生のきらめく宝物だ。私はお母さんに何もしてあげられなかったからせめてこの文を書くことで恩返しができたらいいなと考えている。お母さんからクリスマスプレゼントにカメラを貰った。もし中国で日本のことを学生たちに教える機会があるのならぜひ、このカメラで取った生の日本を伝えてあげて欲しい。そうお母さんが言ってくれたのだ。しかし、私はそういう機会がある場合には必ず、私の心のシャッターを押した場面を、心のアルバムを伝えられたらと思う。日本で見聞きしたことだけではなく、こういう優しい人がいるんだ、こんなにも中国に親しみを持ってくれる人もいるんだということを伝えたいと願う。私の中で「日本」はすでに特別な言葉となってしまった。日本語を教えることは夢でもあるし、日本は私の青春の思い出の地でもある。お母さんをはじめ私を支持してくれた友人たちをもてたことは私が日本を去るときに、感謝と惜別の情で心がいっぱいになることだろう。私はただの普通の中国人の女の子で、はるばる日本に来た。三年が過ぎてお母さんと友達になって親子のような気持ちになったことは私の人生の中で一番輝かしい宝物である。中国ではできないような体験も多くした。あちこちバイトに奔走し、辛い経験もした。新年や中秋節でも異国の地で孤独だと思っていた。しかし、お母さんの笑顔や包み込むような愛を思えば、ちっとも孤独なんかではなかった。日本に来られて、経験を重ねたことは非常に恵まれている。挫折や苦しみは同時に私を強くしてくれた。以前ははるか遠くにあった日本にこんなに強烈に親近感を覚えたというのもお母さんと出会い、そして予想だにしなかった別れ、これらのことは「一期一会」という日本語を肌で感じることにつながった。これからはめぐり合い、その時々の想いを大切にして自分と周りの人に優しくしたい。これは日本という国を構成する人から得たものだ。この文章を終えるにあたり、この文はお母さんへの感謝の思いを綴ったものなので、これからも私の活躍を見守り、天国で安らかに過ごしてほしいと思う。天国でも、私の記憶にあるあの優しい眼差しで見続けてほしいと切に願う。



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