一般財団法人 京都国際文化協会(Kyoto Intemational Cultural Association)
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「私の見た日本―移り変わる観点」
ソニア・エネヴァ (ブルガリア)

 私の生まれ育った国は15年前まで共産主義の国だったので、子どもの頃には、「味方」のソ連と東ヨーロッパの国々、そして「敵」の西ドイツ以外の世界は殆ど知られていなかった。しかし、私には日本が存在していた。私の日本は、父が出張へ行って買って来てくれた子供用の、ミッキーマウスの模様がついたピンク色のキッチンセットだった。長年にわたり、その国はどこにあるか、どんな国かを全く気にせず、キッチンセットがある限り、日本は私の目の前にあった。
  民主主義の時代になり、バナナ、光沢紙の雑誌などの形で世界がお店に入ってくるに連れて、テレビを通じて人々の家にも新しい世界が広がり始めたその頃、私は日本についての番組に釘付けになっている自分に気づいた。日本は最早キッチンセットだけでなくて、むしろ魅惑的なまったく別世界だった。侍・最新技術のような正反対の面をあわせ持つ、夢にも見てなかったこの新しい世界に少しずつ夢中にさせられ、結局高校を卒業してから、日本学科に入ることにした。急に、今までと全然違う面から日本を見るようになった。文字!大学の最初の日に平仮名を教えてもらい、次の日にテストがあると言われた瞬間、生まれて初めて日本に対して不安を感じた。一晩でこの新しい日本を身につけることが出来るのかな?!頑張れ!「あ-お」「め-ぬ」「ね-れ」それぞれのペアがまったく同じように見えたにもかかわらず、視覚、聴覚、触覚を合わせて覚えきれた。漢字はさらに挑戦だったが、同時によりうっとりさせられた。その後二年半、日本語、日本文学・歴史・経済・芸術に付き合い、知識がだんだん広がっていったけれども、昔のキッチンセットを別とすれば、日本は実体のない二次元の映像に過ぎなかった。その時、初めて実際に日本に来ることになった。比較することのないぐらい嬉しい私はやっと本当の日本を、最初は鳥瞰だったが、見られた。六週間の間、出来る限り多くのことを知りたくて、ドキュメンタリーで見たことは事実に合っているかどうかを判断したくてたまらなかった。さすがに、日本には最も優れたドキュメンタリーでさえ表現できない特性があることをまもなくはっきり理解できた。自分の宗教とまったく違う寺社に入る時の興奮;使い方の分からない珍しい機械に至る所でぶつかる時の軽い困惑;大阪・東京の大都会の雄大さを感じる喜び;広島の原爆博物館で知った戦争の、体全体が無声の悲鳴をあげるかのようなその恐怖;ホストファミリーの暖かさに対する感謝の気持ち―全てが心に響いて、帰国しても日本の恋しい味がいつまでも残っていた。
  二度目の日本は日本語日本文化研修生の目から見ることになったので、今度は一年間日本をたっぷり経験する機会が与えられ、五感を「開けて」飛行機を降りた。再び、何を見ても、それは日本の無条件の善だけを示していた。この前に恋に落ちた京都は相変わらず素晴らしいし、どこにも微笑して親切な人がいる。小さなことまで周りを観察しながら、徐々に若者のファッションに目を奪われてきた。色が決して合わないブラウスとスカートや、ピカピカしている装飾物、何枚もの上着を重ねたり、派手な靴、鞄、アクセサリを身につけたりする人が最初は変に見えたが、だんだん好きになっていく私がいた。特に、ヨーロッパの男子と違って、日本人はおかまと思われる心配もせず、ピンクなど新鮮な色を着たり、ヘアピンを付けたりするところを見て、本当に感心した。程なく私もファッションの試みをし始めた。気づいたら、日本はもう見るだけの的ではなく、私を変える手段になっていた。
  服のファッションを容認した後、流行っている音楽に目を向けた。そこにあったのだ。私の日本のイメージをひっくり返すCDが。私は別に何の目的もなく「Tower Records」に入った。今から思えば遠く感じるその冬の日に、偶然にオレンジレンジの新しいアルバムを試し聴きした。へえ、何それ~?笑いながら思った。聞いたこともなかったこの歌手がまるでCDを売るためでなく、楽しみのためにアルバムを作ったかのように聞こえた。早速それを買って、家でゆっくり聴いて以来それから離れられなくなった。他の音楽を全てやめ、オレンジレンジの新大ファンとして彼らについてもっと調べてから、まもなくデビューアルバムも手に入れ、さらに好きになり四六時中オレンジレンジを聴くようになった。けれども、生まれて初めてアイドルを見つけた私は自分の青春期のような情熱に驚きっぱなしであったことを包み隠そうともしない。とにかく、オレンジレンジが全国ツアーを始めると聞いたとたん、ぜひともライブへ行こうと強く決意した。しかし、チケットの発売日の二週間ぐらい前、わずかな心配が心に浮かび始めた。というのは、その時オレンジレンジは大人気バンドになっていたため、ライブに対するファンの関心が拡大するに連れて、夜中3時にテレビ番組でチケットを予約したり、一時的な予約電話番号が内緒で回ったりすることが起こった。こういう電話番号を手に入れても、決して繋がれないので、私の落胆も比例して膨らんでいった。しかしまだ発売日を、希望を込めて待っていた。いよいよ一月二十三日の朝が来て、七時ごろにチケットぴあの前に着いた。発売は十時からだと知っていたので、その場に女子二人しかいないことはそんなに珍しく思わなかった。ひょっとしたらそれは京都の冬の最も寒い朝だろう、と不快に意識して、自動販売機で買った熱いドリンクを何本も飲みながら、開店を待ちに待っていた。ようやく店員が来たが、教えてくれたことから望みがないとわかった。またしても、直接に買えず、電話で予約してからチケットをもらうことになっていたそうだ。駄目だよ!! どうして?こんなに待ってたのに!なんでいつもいつも機械でことをやってるの?どんなにうめいてもどうしようもなかった。もちろん教えてもらった番号に絶えずかけてみたがなかなか繋がらず、結局三時間半後になってようやく繋がれた時、「ご予約を終了いたしました」という世界一ひどいメッセージだけを聞いた。その日の午後は今まで日本で過ごした時間の中で一番思い出したくないときだ。困惑した気持ちと、同時に抑えられない怒りでいっぱいになり、私の大好きな日本に初めて幻滅感を感じずにはいられなかった。電車が一分遅刻する程度のまったくどうでも良い時の車掌の深いお詫びと正反対に、チケット一枚で夢を断たれた、本当に迷惑をかけられた今の私には謝る人が一人もいなかったことは問題の一面に過ぎなかった。その日に限り、日本は私の愛に応えず、最も残酷な方法で私に違和感を与えた。その悔しさを乗り越えるには時間がかかった。春休みに沖縄へ行かなかったら、多分私はずっと落ち込んでいただろう。しかし、沖縄の素晴らしさは日本に対する昔の好意を無条件に回復させた。京都の神秘的な狭い道や、東京の不思議なにぎやかさとはまったく違う世界だった。わくわくさせる綺麗な海と空、見たことがなかった植物、どこを見てもリゾート気分を最高に高めてくれるハイビスカスの花、明るい、広い町とのんびりしている人々、全部そろって魔法のような印象を残した。たとえ、この地上の楽園にあるべきではない米軍基地や残酷な戦争の跡があっても、私にとって沖縄は終りのない休みのリズムで鼓動していた。(「南の島」を好きになったもう一つの理由は、そこがオレンジレンジの出身地だからである。)そして、無上の幸福の一週間が経ち、沖縄のハブ酒という恐ろしいお土産を買わずに京都に戻った時、オレンジレンジがどこからかインスピレーションを受けるのを見た今、ライブに行きたいという希望が再び現れた。キャンセルされたチケットを捜して、無数のチケットぴあ・金券ショップをむなしく廻ったあと、一つしかやることは残っていなかった。つまり、コンサートの日に会場に行って、ダフ屋から切符を買うことだった。その間に、インターネットでオレンジレンジの切符は正式な値段が4,200円であるにもかかわらず、四・五万円以上のとんでもない金額まで上がっていたので、コンサートの当日に、途方もないお金をつぶさないように一万円しかもって行かなかった。着いたら、ホールの前にダフ屋が沢山いたが、みんな三万ぐらい求めてきた。結局、一人は私が持っているお金で切符をくれると約束したが、コンサートが始まるまで待たなければならなかった。仕方なく、激しい雨から逃れてマックに入って、コンサート場へ続々やってきた嬉しい顔つきを見つめながら、日本のもう一つの特徴を考えた。どういうことかと言えば、私の国にはそれほど好まれている歌手はまずいないし、コンサートがあれば、切符はどこでも買える。多分、小さすぎて、本当のセレブリティといっていい人はいないのかもしれない。でも日本では、その6人の男の子以外にも、ファンの間に病的と言えるほどの興奮を生み出す芸能人が数多くいるのではないか。崇拝されるほどの有名人が自分の国にいるだろうかと不思議に思ったけれど、同時に多少羨ましくも感じた。いずれにせよ、ライブの開始時間が近づいてきたとき、また「私の」ダフ屋を捜しにいった。もっと待てと。ふむ、いつまで?コンサートが始まって、人は全然来なくなっても、もっと待てと言われ続けた。マックに二百円ほど使ったので一万円弱になった私の全財産をもって、私はついに切符をくれるかどうか直接に聞きにいった。いくら頼んでも「一万持っていたらあげた」という、痛いほど冷たい返事しか来なかった。
  その夜の帰り道に、涙のかげから日本を見た。ただしそれは愉快な景色ではなかった。他の人に一万円で売ったのに、僅か二百円が足りないだけで、切符をくれなかったそのうぬぼれたダフ屋の顔は絶対消えることなく、私はとてもつらい思いをした。さすがに、どこにでも悪い人はいる。外人だからチケットを断られたのかもしれないと思ってしまった。嫌でも、今まであまり気にしていなかったことが次々に浮かんできた。知らぬ人からのとがめるような目つき、電車で隣の席に誰も座ってくれなかったこと…いくら「郷に入っては郷に従え」と頑張っても、愛しく思っている日本では「外人」とはいつまでも外の人としてしか認められないのだとはっきり分かった。
  だけども、次の朝新しい人生観を持って目を覚ました。つまり、日本となじむようになる必要などなかった。昔のキッチンセットを初めて手にした時以来私はずっと日本を好きだった。自分が好きな人の短所を批判する権利がないのと同様に、大好きな日本の短所を批判する権利もない。結局、絶対的な善でなくても、体験させてくれたことの大部分が素晴らしい思い出を残したので、日本は私にとって最高だった。
  その事件の後、日本人の考え方をもっと理解するために、出来るだけ人の話を聞いたり、若者に会ったりするようにしていたが、今度はもうちょっと冷静に判断をすることにした。子どもの頃の日本についてのイメージが目の前で変わっていくに連れて、その無数の面で私自身も成長していくのを感じた。

 終りに、オレンジレンジのコンサートへ行かなかった絶望と同じぐらい強い感動を感じた良い思い出を分かち合いたい。それはもちろん、京都の最も壮麗な時期の祇園祭だ。山鉾巡行前の四日間毎日現場に行って、山鉾を見に来た人々を見た。浴衣・着物を着ている姿が今まで見た日本の中で間違いなく一番(実は相応しい言葉を見つけられなくて、英語のfabulousしか思い出せないが)素晴らしかった。凝った髪型のギャルでも、キティちゃんの模様の浴衣を着ている女の子でも、茶髪の少年でもみんながこの時代に属している人ではないかのように見えた…
  この魔法こそは私が実際に見て感じた日本だ。




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