一般財団法人 京都国際文化協会(Kyoto Intemational Cultural Association)
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「一風変わった京都好きの日本文化論」
Suji LEE (韓国)

 私は京都が大好きだ。これまで4回京都へ行ったが、そのうち3回は同じく「ある場所」を訪ねた。この「ある場所」のために京都へ行きたがっているといっても過言ではないぐらいである。京都はつねに日本人にも外国人にも愛されている場所であるし、すばらしい文化遺産を数え切れないほど持っている都市でもあるから、まあ、わたくしみたいな京都好きがいるとして不思議な話ではないだろう。しかし、私がなんで京都にはまったのか、あの「ある場所」って何なのか、ということを周りの人々に話すとみんな笑ってしまうのである。いったいどこなのか想像できるだろうか。夢のように虚空を横切る通天橋がある東福寺でもなければ、仄かな情趣の漂う白川南通りでもない。紅葉の清水寺でも桜吹雪の哲学の道でももちろんない。わたしを魅了させてしまった場所、それはほかでもなく老舗の喫茶店、河原町三条の近くに面した「六曜社」である。


  初めてこの喫茶店と出逢ったのは2007年の冬だった。10年ぶり、2度目に訪ねた京都は相変わらず千年古都の魅力と真冬の寒さをこれ見よがしにさらけ出し、その寒さに震えていた時、ガイドブックの中から偶然に1枚の写真が目に飛び込んだ。コーヒーとドーナツの写真。「名物ドーナツが100円」という文句とともに丸くて温かいドーナツが、湯気のゆらゆら立っているコーヒーのそばにおいしそうに置いてある写真をみていたら、誰にもその誘惑を退けることはできなかっただろう。更に、日本のガイドブックで紹介する「名物」とは本当に名物であることを、私は数年間の滞在経験を通してよく理解していた。みんなが並んでいるお店には必ず原因があり、名物と呼ばれるものには相応の理由があるはず。それが日本という国のやり方なのだ。素直さである。
  元々無類のコーヒー好きでありドーナツ好きの私は、その店に是非とも行かなくてはと思った。道を尋ねに尋ねてようやくたどり着いたこの小さな老舗の喫茶店はとても居心地の良いところだった。売り切れでドーナツを食べられなかった私は、軽い失望を覚えながらコーヒーをいっぱい飲んでから帰った。コーヒーはとてもおいしかった。翌日、再びドーナツを食べるためにその喫茶店を訪ねた。今回も見事にドーナツは売り切れだった。涙が出るほど悔しかったけれど、コーヒーの味は頬が落ちそうであったし、何よりも古き雰囲気の喫茶店の風景がとても気に入った。次回は必ずドーナツとともにコーヒーを飲もうと、念を押しながら喫茶店を出た。
  それから2年後、私は再び京都を訪ねた。「今度こそ負けないぞ」という勢いで京都駅に降りるやすぐ河原町三条のあの喫茶店に向かった。幸いに席も空いていたし、丸2年間も夢見ていた、まん丸くて大きなドーナツがついに白いお皿の上に載せられて私のものに届いたのである。夢が叶う瞬間であった!その日飲んだコーヒーとあのホカホカのドーナツの味を言葉でどうやって説明できるだろう。あのコーヒーとあのドーナツをあの老舗の喫茶店で飲んで食べたからこそ味わえる感動の経験だったとしか言う他ない。私はその翌日もまた、京都の町を歩いてから六曜社に寄った。暖かくて、とても居心地良かった。そして感動であった。
  単にコーヒーがおいしくてドーナツがおいしいからではなかった。千年の都京都。千古の歳月が悠々と流れる町。古典の情趣や先人たちの魂と精神が漂う場所。その真ん中にある古き珈琲屋で私はその精神の現在と遭遇しているような気がしてならなかった。素早く変化し続けている21世紀。韓国ではコーヒー屋といえばとても洒落た雰囲気に大きいガラス張りでできている場所をまず思い浮かべるものだ。昔は喫茶店といえばやや暗い照明に静かな音楽が流されていた所だったのに、いつからかだんだん明るくなり、今にいたってはもう外からも「ここがコーヒー屋です!」とすぐでもわかるように壁さえ透明なガラス張りになってしまった。スターバックスや、海外のブランドを真似した韓国のコーヒー専門店も最近はこんな感じのものが多いようだ。
  ところが、日本ではスターバックスのようなコーヒーショップをはじめ、明るい雰囲気のしゃれた喫茶店も多いけれども、それに負けないぐらい昔ならではの老舗で、クラシック音楽が流されたりして、落ち着いた照明に席もそんな多くない、小さな喫茶店がまだまだ残っている。特に京都はそういった喫茶店が多いところとしてもよく知られている。ガイドブックなどにもそのような老舗の喫茶店が数多く紹介されている。
  私が訪れた六曜社もそういった老舗の喫茶店のひとつであった。最初六曜社へ入った瞬間、初めて訪ねたところにもかかわらずなぜか懐かしくてなじみ深い感じがした。最近のしゃれて明るいコーヒーショップに入った時の輝きや若干の緊張感とはまるで異なっていた。クラシック音楽、殷々たる照明、古い椅子やテーブルがここの長い歴史と情趣を語ってくれるようであった。まるでおばあさんのところを訪ねた時に感じる安らぎのように、ただ旧きものではなく、長くて古きもののみが持っている情趣であった。さらに、このお店のコーヒーの味がまたすばらしいことがあったのだ。心をかけて珈琲を挽いて、抽出して、客の前に届くまでにはかなり時間がかかった。お客さんが多い時には、入ってくる客に対して、コーヒーが出るまで30分以上かかるけれども大丈夫か聞いたりもした。ああ、たった1杯のコーヒーを享受するためにずいぶん待たされるのだ。コーヒーチェーン店が普遍化しつつあるこのごろ、久しぶりに味わう風流であった。初めて六曜社を訪問してから2年後にまた訪問した際にも、またその次に訪ねた時にも、その雰囲気、その空気、その味はそのままであった。いや、味は正直なところ、少しずつ違っていた。その日の気分により、お天気により、私の感じにより、異なっていた。生きているコーヒーと遭遇するような感じだった。1つの共通点といえば、どれもすべてとてもおいしかったということであろう。
  雰囲気に圧倒された私は、コーヒーの味に再び魅了されたまま、ゆっくりとこの由緒ある空間を眺めてみた。ところで、最初ここにきたときから1つおかしく思ったことがあった。私が入ったあとに外のお客さんたちが入ってきたが、確かカウンターの側に席が2、3席空いているにもかかわらず、オーナーは「すみませんが、満席です」と言うのであった。「しばらくお待ちください」でもなく、席が空いているのに席がないというから妙だなぁと思った。ところで、そのあと、再び京都を訪問してこの喫茶店に入ってきたときにも同じことを聞いた。テーブル席は既に満席で、カウンターの方へ3人ほど座っていた。そのうち1人は私であった。カウンターには少なくとも4席は空いていた。隔たって座っている客たちがくっついて座るか、荷物を下に下ろせば2,3人は十分に座れる空間だった。それなのにお客が入ったら、席がないから次回きてくださいと言うのではないか。私は少し申し訳ない気持ちになり、「もしこのお客さんたちも私みたいに京都にくるたびここを訪ねるマニアかも知れないのに、席がなくて帰ったらどんなに悲しいだろう」と勝手に思ったので、自分の椅子をもっと引っ張って隣の席を作ってあげた。お荷物も邪魔にならないよう、ちゃんと下に下ろして隠した。しかし、またほかの客たちが入ってきてもオーナーはちらっとカフェーの中を見回してから、今は満席だとだけ言うのであった。集中して珈琲を淹れているこの独特な印象の持ち主は、いったい本気で商売をしているのかな。とても不思議でならなかったのである。ところが、ああ、そのときやっと私は気づいたのである。カウンターの奥のところに座ってカフェーを見回してみると、確かに席は余っていても、ここがすべて満席の状態になったらなぜか狭くてちょっと息苦しい感じがするかもしれないと思った。時間をかけてゆっくりと淹れた珈琲を、お客たちに悠々と飲んで楽しんでもらうためには、ちょうどこれくらいの人数で充分のような気がした。ああ、そうだったんだ、オーナーは多くの人々に珈琲を売るという商売ではなく、この空間のなかで自分が淹れた珈琲を楽しんでもらおうという、その豊かな楽しさを売っているんだ。彼の珈琲に対する愛情とその珈琲を提供している珈琲屋に対する哲学こそ、この喫茶店を老舗としてきたものだと悟るようになった。
  珈琲の味と、そしてコーヒーショップという文化コードが提供してくれる楽しさと情趣を思う存分味わえる喫茶店「六曜社」。洒落たコーヒーショップが繁盛している時代の中でもおそらくこの古き喫茶店は、千年古都の雰囲気を漂わせながら、いつまでも変わることなく河原町三条の一角を占めているだろう。その源にあるのはオーナーの職人精神である。何が大事なのか、何が価値あるものなのかを知っている精神、一番大事にしていくべきものが何なのかを知っていること、そしてそれを頑固に守り続けようとする精神、それがあの六曜社を作り出し、長く続けさせ、歴史にしたはずであろう。その歴史が私を魅了させ、私を京都好きにし、ドーナツと珈琲のために進んで新幹線へと足を向かわせるのである。
  老舗の六曜社は千年古都の京都がなぜ京都なのかを現在形で私に語ってくれる、生きている歴史である。京都に残っている数多くのお寺と神社、悠久の歴史と伝統を誇る歴史遺跡と文化遺産を眺めながら、それらが偉大なのは古きものだからではなく、それが現在の21世紀を生きている我々の心を叩き、何かを語ってくれるからであることに気づく。その力、それはまさに古典の力である。ある世界を徹底的に掘り続けて到達した美学の極点。だからこそ、歴史遺跡や文化遺物や芸術作品は現在形としても有意義であり、生きているものとなる。一番大切なこと、時代が流れていても変わることなく人々の心を動かして開けて感動させるもの。その何かを徹底的に追求してまた追求して追求しまくって完成した芸術作品。京都の町のあちこちでこうして生まれた芸術作品やお寺やいろんなものと逢えるのである。その根本にあるのは、徹底した職人精神であった。 そのような職人精神を私がこの河原町の老舗で同じく感じたといえば言い過ぎなのだろうか。私は決してそうではないと思っている。日本に住んでいながら私が肌で感じ取ったものがある。まさに日本人の徹底的に探求しきる精神である。何をするにせよ、緻密に最後まで掘り続けるあの精神。その細密さと緻密さが現代においてもさまざまなすばらしいものを作り出しているのだと感心するばかりである。私が属している研究の世界においても、日本の学者の緻密さには舌を巻く一方である。その緻密さにたまには息苦しくなるときも正直にないとは言えない。しかし、この徹底した緻密さのなかで、几帳面にやっていき、誠実さの果てについに生まれてくるもの。それは21世紀にも依然としてその力を振る舞っている資本主義の論理にしても決して侵害できない、ある種の貴さである。その中には時代を超えた人間の魂が入っており、人間であるならば共感するはずの「感動」が染み込んでいるのである。何が一番大切なのか、追求すべきものは何か、何を継いでいくべきか、その問いに対して堅実にまじめに粘り強く答えを探っていく日本人たち。彼らが世界最高のものを作り出し続けてきた背景にはまさにこのような粘り強い職人精神が裏付けられているに違いない。
  京都の古い喫茶店でコーヒーの味を、そしてコーヒーショップというものが与えてくれる安らぎと風流を味わいながら、私は東福寺と清水寺をゆっくりと歩いていた時と似たような感動を経験した。お寺であれ喫茶店であれ、私には同じく千年の都京都のシンボルなのである。
  21世紀は急激に変化しつつある時代である。何が本当に価値あるものなのか、なにが大事なのか、何を継ぐべきか、「人間」としてわれわれは何に感動するのか。日本社会も日々変化し続けているが、かつて彼らが備えていた職人精神、その哲学がまだあの変化の京都の町に残っていることはいかに幸いなことであろうか。その大切な歴史を日本社会がこれからも継いでいくことを願ってやまないのである。 


  秋になると再び京都に行ってみたい。私の愛する東福寺の通天橋で殷々と暮れていく紅葉を眺めてみたい。そのあと、また河原町へと足を運び、六曜社でかなり待たされた後にでてくるコーヒーを1杯いただきたい。ドーナツが売り切れでないことを祈りつつ。そして冬になったらまたそのホカホカのドーナツとコーヒーに憧れ、わたしはいつの間にかまた京都行き新幹線に乗っているだろう。感動を味わえる町、歴史が生きている町。私の愛する日本、私が常に学び、手本としたい日本がいつもそこにあるからだ。(以上)

 



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