僕の祖国ポーランドは東西ヨーロッパを結ぶ交易の道の中間点に位置しています。その地の利の良さがかえって災いし、長い歴史の中で、何度もドイツやロシア(ソ連)などの侵略や分割の憂き目にあってきました。
ポーランドの人々の心の中に治らない傷が残っていると僕は思います。その傷が私たちを悲観主義者にしています。不幸な歴史で深く傷ついた心はそう簡単には癒せないのです。僕には、どこを見ても暗雲が立ちこめたような状況に見える祖国でした。
高等学校を卒業して次のステップを考えたとき、僕は悲観主義で終わりたくないと思いました。希望が持てるところに行って、生まれ変わって本当の自分を発見する旅に出たいと考えました。
日本にも「かわいい子には旅をさせよ」という諺がありますが、ヨーロッパにはグランドツアーという言葉があります。17~18世紀、貴族の子弟がイギリスやヨーロッパ大陸を放ろうした、その習慣の呼称で、10代後半に出発し、長ければ5~6年かけて欧州を歩き幅広い教養を身につけて帰ってくる。この旅の目的は自立心の育成です。
大学と学部専攻を選ぶときに遠い国に夢を見ました。夜でも虹が見られそうな国―日本をです。日本を目指して、ワルシャワ大学の日本学科を選びました。
五年間日本について学ぶうちに日本の心臓の鼓動のリズムを覚えてしまって、僕の心臓のリズムもそれと同じリズムで鼓動を打つようになってしまいました。違ったリズムでは僕は苦しくなってしまったのです。
卒業してその年に京都大学への留学が決まり京都に来ました。京都に着いた最初の瞬間から不思議な安らぎを感じました。ここなら「怖れるものなんか何もない」が僕の印象でした。心理学の説にもあるように、人間は安らぎを覚えると、将来に向かっての夢や希望が芽生えてきて、次にはそれを実現するために頑張ろうという意欲が沸いてくるものです。 京都との出会いのおかげではっきりと自分のやりたいことがわかり、夢を実現させることにしました。その夢とは建築家になることなのです。
子供の頃から建築に興味がありました。しかし、文化系の道を選んだ僕は理科系の建築という進路と結びつける方法を知らないで、与えられた環境の中で精一杯頑張って勉強をしてきました。デザインが生活に密着している京都に今回留学でき、なんだか運命的なものを感じています。京都には歴史があり、文化があり、美しいものがあり、信心深くない僕だけれど、こんなにも心が動かされて、祈りたくなってしまう時も少なくありません。沢山の感動と同時に「本当にいいものには、技術とは関係なく心がある」という一言との出会いが僕に勇気を与えました。確かに今のところは建築に関する技術的な知識や技能は少なく未熟ですから。しかし今は自分の背後から何かの力で押されるように、また自分の中からも強く突き上げるものがあります。
建築家は真の意味でのヒューマニストでなければならないと思います。今は文化系の道を歩んできたことをとてもよかったと思っています。僕は工学的発想からだけではなく、芸術、哲学、文学などの文化的視点に立った豊かな環境をデザインするスペシャリストになりたいと考えるからです。
日本との出会いが僕に希望を持たせて、頑張れる力をつけてくれました。それが僕から見た日本、僕の日本の印象です。しかし、日本をバラの花に例えるとバラに針があるように思いがけない針がありました。僕はその針に刺されて怪我をしました。
運命と受けとめていますが、わかってもらうために針について少し説明をします。
私はワルシャワ大学で日本の近世史を専攻し、その研究を継続する目的で京大文学部に文部科学省の奨学生として留学してきました。しかし、京都という伝統と文化の薫り高い都市に暮らす内に、日本建築の美しさに魅せられました。寺院、塔、町屋や茶室など日本建築、とりわけその中に息づいている精神性に強く興味を覚え、研究の延長線としてさらに日本建築に的をしぼって研究したいと考えました。そこで改めて工学部の建築学部を受験することにしました。努力した甲斐があって、京都大学工学部建築学科修士課程に合格できました。
修士課程に合格すればこれまでの研究生という身分から学生という身分で続いて奨学生として勉強出来ると、説明を受けていました。しかし、奨学金が打ち切られました。理由は文学部から工学部へと学部を変更したからだそうです。これが針でした。飛べなくするために羽を少し切られたような感じではありましたが、しかし羽がある限り又いつか空に近づくほど高く飛べるはずだ。僕らしくあるために僕の信じる道を突き進んでいくほかないと決断をしました。
四月に引越し、昼間勉強し、夜働き、忙しい毎日です。すべてを引き裂いてしまいたいと思う時も当然ありますが、僕は楽な人生を決して望んではいません。頑張ること、そういうことを自分に求めています。ひたすらひたすら努力を続けていると、必ずものごとがはっきり見えるようになると信じているからです。
この頑張れる力は日本からの贈り物だと思います。以前の僕にはこれほどの力はきっとなかったでしょう。時々この頑張れる力はどこから来ているのかと自問自答します。それは今まで感じたことのない「自由」です。そして「シンプル・ライフ」と「日々新」(にちにちあらた)です。明日よりもまず今日の心の働きをより大事にする心構え、そして充実した一日一日であるようにという、喜びをもって日々を生きていく、こういう人生を送りたいと思うようになりました。これからもできるかぎり簡素単純にし、心の世界を贅沢に生きよう、と思います。
緑の多い岡崎に、草庵より一寸だけましな僕の部屋があります。そこに引っ越した理由といえば、それは家賃が安い(!)ことです。家賃が安い理由は当然それなりにあるわけですが、でも今は家賃が安いというよりも楽しい仲間がいて心地よい住まいだというふうに考えています。蝶もトンボも蚊もぼくの楽しい仲間です。彼らを見ながら、心は彼らと一体となって気分がいい。自然の中の命の気配に静かに耳を澄ますひとときです。
青山緑水是我家、という詩の一節があります。現実には無理ですが、建築の存在に人が気づかず、自然の中にいるように感じさせる建築を僕は夢見ています。
日本文化にとって大きな特徴とは、自然との調和でしょう。日本の建築を見ていつも不思議に思います。建物は庭に通じ、庭は自然に通じているのです。自然と対抗するものとしての建築ではなく、自然と融和して空間に訴えかける建築といってもいいでしょう。
西洋と日本の建築の最も大きな違いとは自然に対しての考え方にあると僕は思います。人間は、自然より優位に立っているという西洋の考え方に対して中心に自我ではなく、自然を置くという日本の考え方です。
何かの本で読んだのですが、西洋では建築家を目指す人はバベルの塔を建てるぐらいの気持ちでなかったら止めた方が良いと。バベルの塔はノアの大洪水の後、人々が築き始めた天に達するような高い塔のことをいいますが、神は人間の自己神格化の傲慢をにくみ、人々の言葉を混乱させ、その工事を中止させたという旧約聖書の話です。
建築家を目指す人はバベルの塔を建てるぐらいの気持ちでなかったら止めた方が良いと。どういう意味か─神をも恐れないで、自分が神になり代わったぐらいの強い意志と自信をもって作品を作れと。それは間違っていると僕は思います。僕は神さまを信じていませんが、自然を信じています。神様に近い存在である自然を征服するつもりはありません。
西洋人が「わが家をわが城」と考えるのに対して、日本人は「わびずまい」とか「雨露をしのぐ」とか、「五尺の身を入れれば足りる」というように考えるようですが、驚きであり大変興味深いことです。
木の香り、床を歩く音、畳に触れる感覚、紙を通しての柔らかい光などを、感じる日本の空間は、目で見るためのものというよりも五感を駆使して体験するための空間ということができます。僕が目指す建築の理想は、おそらく日本の伝統的な建築の中に見つけられることでしょう。
建築家としての僕の夢は悲しい歴史に由来する暗いイメージのワルシャワの街に、人を優しく包み込むと同時に精神が高まる空間を作ることです。小さなものからでも、毎日の生活の中に、感動や喜びを与える事が出来たらと思っています。
茶の道は僕が魅せられたもう一つの世界です。まだ未熟で茶の心について語る資格はありませんが、あえて言えばそれは素朴だけれど豊かなもの、清らかなもの、そして何よりも自然との調和の精神です。
「目を閉じて青山緑水を心の中に浮かべる、自分の両手の中には一個の茶碗が乗っている。目を開けてその中を見ると、緑の茶で一杯です。小さな茶碗の中に大きな自然があるのです」(千宗室「茶の心」より)。
僕の毎日はまるで茶の味がするような感じがします。苦味と甘味の絶妙な取り合わせです。
今の僕には夢しか有りません。言い換えれば、何もない。しかし禅宗の言葉にあるように「何も持たないのは世界のすべてを持つ」ということならば、夢がある僕には希望があります。
千利休はぬるい茶を嫌い、ぬるい心を嫌い、そして何よりも自分がぬるく見られることを嫌いました。生きることは自作自演の物語のようなものでしょう。だからこそそのたぎる心から学びこれからも頑張りたいと思います。自分というものを、最後まで立派に演じきる、真剣に生きるということがもっとも重要であることも、日本から学んだ大切なことの一つです。
日本にいる限り僕は不思議な強い力に満ちていることができます。背後から押し上げるような力に。日本のおかげで僕という人間を根幹形成することができたように思います。日本とは僕の人生にとって重要な意味を持つ場所です。これが僕の日本に対する印象、僕の見た日本です。 |