一般財団法人 京都国際文化協会(Kyoto Intemational Cultural Association)
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「私の沖縄旅行」
金 京美 (韓国)

 私が3年前日本語学校に通っていた時、母国にいる母から日本で家族旅行を考えているからどこかいいところを調べて欲しいと言われました。私は始めての家族旅行だったので、とても嬉しい気持ちでした。旅行先は当然沖縄でした。その理由は学校の通り道にある旅行会社のポスターでした。その旅行会社のガラスにいつも貼っていたポスターは沖縄の大きな海でした。その海は透き通っていて、とても青くて広く、海の中に生きている生き物までが見える、美しい海でした。私には、いつもそのポスターが目に入ってきていたので沖縄ってまるで平和な楽園だなと思いながら、いつか必ず行って見たいなと思っていました。
  私はすぐに沖縄の旅行の手続きや、準備を始めました。旅行の計画が決まり、その日まで待ちきれない日々が続きました。ついに沖縄の旅行当日、私はもちろん家族全員がどきどきしながら大阪から沖縄へ出発しました。飛行機から見た沖縄の景色は、青を基調とした、とてもきれいな海の広がりでした。沖縄に着いたとたん、海の匂いが私の鼻に挨拶してくれました。私たちはすぐに車に乗りホテルに向かいました。私はホテルに向かっている途中何回かアメリカの軍事車や兵士たちを見かけました。私はなぜこんなにアメリカの兵士がたくさんいるのだろうと疑問に思いながらホテルに到着しました。私はホテルやホテルの周辺を見ると、心が広がったようで、素敵でいい眺めだなと思いました。ホテルを出て車で沖縄のパイナップル公園の所に向かっている途中、大きな海が目の前に広がりました。その海は旅行会社に貼っていたポスターよりもきれいで、太陽の光に反射しており、まるでダイアモンドの海と言っても過言ではありませんでした。私は心の中でやはり沖縄は私が思ったとおり、平和な楽園だと改めて思いました。私たちはパイナップル公園に到着し、一風変わった乗り物に乗り、公園を一周し、パイナップルを育てる過程の説明を聞いたり、試食をしたりしました。パイナップル公園の観光が終わって次の目的地サボテン公園に向かっている途中、私は再びアメリカの軍事車や兵士をたくさん見かけました。私は不思議な気持ちのままでサボテン公園に到着しました。サボテン公園には見たこともなかったサボテンのいろいろの種類がたくさんあり、私の身長をはるかに超えるサボテンもありました。サボテン公園からホテルへの帰途、沖縄のそばを食べました。沖縄のそばは大阪のそばより麺が太くて独特の味でした。もちろん韓国にもありません。とても嬉しかった一日が過ぎました。
  二日目の観光目的地はひめゆりの塔でした。私は今日も楽園の観光を楽しもうと思いながら、ひめゆりの塔に到着しました。私たちが車から降りた瞬間、不思議な光景を目にしました。近くの、ある場所で多くの人々が集まっているのが見えたのです。私たちはいったい何をしているのだろう?何かいいことでもあるのかなと思い、静かにそこに近づきました。しかし、そこで見た光景は思いもかけないことでした。多くの人々がひめゆりの塔の前で頭を下げ、両手を合わせて静かに祈っていました。私はなぜ多くの人々がひめゆりの塔で祈っているのかわかりませんでした。いや、もっと正直に言ってひめゆりの塔の意味自体がわかりませんでした。そこで私がわかっていたのは何か重苦しい雰囲気だけでした。私たちはガイドさんの案内でひめゆりの塔の平和祈念資料館に入りました。そこで私はなぜ多くの人々がひめゆりの塔で祈っていたか?ひめゆりの塔の意味は何か?がわかるようになりました。
  ひめゆりの塔は1945年第二次世界大戦の沖縄戦で犠牲になった多くの女子学生たちのために作られた塔でした。当時女の子たちはまだ16歳から18歳の学生でした。16歳から18歳として本当に花が咲く前に戦争の犠牲者になって将来を奪われた若い命…私は衝撃を受けました。そこには女子学生たち一人一人の写真がありました。それらの写真は、きれいで純粋な女子学生たちがたくさん写っていましたが、一人一人がなにかを訴えるようで、本当になんとも言えない感情になりました。私たちは資料館から出ると抑えきれない感情で自然にもう一度ひめゆりの塔に行って頭を下げ、両手を合わせて心から祈りました。しかし、私はその時点でもひめゆりの塔を含め沖縄戦がどれだけ悲惨なものであったかがわかりませんでした。
  私たちは次の目的地水族館に向かいました。私は沖縄の水族館が日本で一番大きいと聞いたことがあります。やはり聞いたとおり水族館は目を奪われるほどの大きさで、多様な海の生物がたくさんいました。水族館では夢幻の境地を味わったような気分でした。私はたくさんの写真を取って、次の目的地沖縄の琉球村に向かいました。琉球村で私たちは沖縄の歌を聞きました。沖縄の歌は韓国の伝統の歌のように独特のアクセントや調べがありました。私たちは沖縄の歌の魅力にすっかりとりこになりました。琉球村ではたくさんの伝統的な家屋がありました。家の周りは石で作った塀で囲まれていました。それは母国、韓国の済州という島でも同じような形をしています。沖縄の家の特長の一つに家の屋根があります。家の屋根はとっても小さくて、低いものばかりで、その屋根の上には獅子を連想するシーサというものが飾ってありました。私はそれを疑問に思い、尋ねてみると、シーサーというものは家を守ってくれる存在で、屋根が小さくて低いのは、台風のためだと聞きました。私には厳しい自然と戦う人間の姿が見えてくるようでした。琉球村で私の祖母は砂糖きびを見つけて大変喜びました。懐かしい懐かしいと何度も言いながら食べていました。私も砂糖きびは初めて見たので食べてみました。とても甘くておいしかったと思います。もっとも、沖縄戦のとき、砂糖きびの畑の中に隠れて爆弾や銃弾を避けたと言うことは後になって知ったことでした。琉球村で沖縄の様々な文化や伝統を見た後、私は不思議な母国との親近感を感じました。
  母国との共通点を考えながら、私たちは次の目的地摩文仁の丘に向かいました。摩文仁の丘には沖縄戦で犠牲となった人々の名を刻んだ石碑が広がっていました。私は石碑を見ている中でなんと表現したらいいのか、強烈な感動を覚えました。明らかに、同国人であり、家族と思われる人々の名を偶然に石碑の中に発見したことです。まさか、韓国の人々が沖縄戦で犠牲になったなどとは考えもしなかったことでした。私は母国の人々とつながる不思議な、不思議な絆を見出しました。私たちは摩文仁の丘の観光を最後にホテルに戻りました。深い感慨に浸りながら、その夜、私の母は沖縄の旅行は本当楽しかったね、またの機会があったらもう一度沖縄の旅行を楽しみたいねと言いました。同意はしたものの、私には母と違った不思議な違和感がありました。
  家族旅行としての沖縄の観光を終え大阪に戻った後、縁あって、私は短期大学に入り、授業をきっかけにして、私が平和な楽園だと考えていた沖縄が大変悲惨な戦争の地であったことを知るようになりました。沖縄戦がもっとも悲惨な戦いとなった理由は、日本軍が沖縄を本土決戦のための時間稼ぎの捨石としたことです。
  那覇市には1944年10月10日の空爆によって、市内の80パーセントが焼失し、すべてが灰になったといいます。主要な建物が破壊され、飛行場が爆破され、なお戦闘が続いたのです。1945年から、それまで以上に市民が戦争体制の中に組み込まれて、さらに窮乏生活が厳しくなりました。そして、1945年4月1日のアメリカ軍の上陸を機に、沖縄本島が完全に分断され、南北に分かれて戦闘が続き、弾薬が欠乏し、市民の食料が絶たれ、日日の生活が維持できなくなったと聞きました。沖縄戦を通じて無数の砲弾で亡くなった兵士たちは9万4千人にものぼります。何の罪もなく、犠牲になった市民はそれ以上になります。沖縄戦では敵が敵を攻撃することはもちろん、アメリカ軍に殺されるより自分たちの手で死を選んだほうが良いと考え、肉親同士が殺し合う「集団死」が起きました。また、アメリカ軍に連れ去られて解放された市民の中にはスパイと見なされ、日本兵に殺される事件も起きました。本当に悲しくてむなしい気持ちになりました。
  私はニュースで第二次世界大戦の沖縄戦でアメリカ軍が沖縄の人々が崖から身を投げるのをフィルムで撮影したものを見ました。その中で女の方が赤ちゃんを抱いて崖から身を投げているのを見ました。本当に悲しみが一杯で胸が痛みました。一方、私の国、韓国は2回の大きな侵略と戦争を経験しています。一回目は日本の侵略と二回目は北朝鮮との戦争でした。私の祖母は二回とも戦争を経験しています。祖母に戦争の話を聞いた時、祖母は言いました。常に脅えている状態で夜になっても怖くて寝る事が出来なかったと、また大切な人を失う事はもちろん人間が人間性を失ってしまうと、そして絶対に戦争というものはするものじゃないと、祖母は私に何度も何度も言って聞かせてくれました。ニュースで見た沖縄戦で崖から身を投げていた人々も、それを撮影していたアメリカ軍も、戦争で人間性を失ってこのような悲惨な形になっていたと思います。
  1972年5月15日アメリカから日本に沖縄が返還されました。しかし、私が沖縄で疑問に思った、主なアメリカの軍事基地の問題はつづいています。韓国でもアメリカ軍基地の問題があります。ソウル近郊で通学道中の学生二人がアメリカ軍の操縦する戦車に引かれ死亡するという痛ましい事件がありました。私はこのような様々なアメリカの軍事基地の問題を乗り越えて、アメリカや韓国や日本が世界の平和に貢献することが必要だと思います。
  今年も、最後の激戦地となった沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園で、沖縄戦での全ての戦没者追悼式が開かれたと言います。
  われわれ韓国人は、決して悲劇の6月25日を忘れることはないし、二度と同胞があい戦うことがないように、全力で将来の韓国を築かなければならないと考えています。また、その6月25日に併せて前々日の6月23日と言う日に、沖縄戦の最後の戦闘終結地となった摩文仁の平和祈念公園のことを、忘れることなく母国の人々に伝えたいと心から思っています。
  美しい沖縄が、観光のリゾート地として発展することは外国人のわれわれが見知らぬ美しい海を体験することで、大いに意味があることだと思います。また、沖縄の観光リゾートだけではなく、沖縄の本来の歴史を体験することを沖縄旅行を通じて痛感しました。私は沖縄の歴史を、もう一度学んで、充分理解した上で、改めてもう一度異なった目で沖縄への旅行に行きたいと考えています。
  戦争と言うものは、数知れぬ多くの犠牲を伴います。敵、味方に関係なく、誰もが犠牲者となるものです。そして、戦争は決してあってはならぬことだと考えます。そのために世界の人々の一人一人が、一日一日、平和への努力を忘れぬことを念願したい気持ちで一杯です。



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