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「育ててくれてありがとう」
アフィファ ファティマ  (インドネシア)

 貴方は今までにどんな出会いがありましたか?私はこれまでに、たくさんの出会いがありました。
私は、インドネシア生まれですが、日本の宮崎育ちです。両親の仕事の関係で3歳から日本の宮崎に移り住みました。その頃はまだ小さく、両親に付いて行きました。日本の第1印象は、「楽しそうな国」でした。3歳の私にしたらそれが当然だったと思います。

 宮崎に住み始めて6ヶ月が経ち私は「木花保育園」に通うようになりました。2週間が経たないうちに日本語が話せるようになったそうです。もう少し詳しく言うと、日本語でも「宮崎弁」を話していたそうです。保育園ではたくさんの友達ができ、毎日のようにはしゃいでたそうです。また、保育園では「挨拶」を学びました。毎朝、保育所に入る前に先生方や友達に挨拶をするのが習慣でした。今その事を考えると、挨拶は人と人の心を結ぶ大切な事だと思います。たとえ知らない人でも、道端でばったり会った人でも、挨拶をする事でなんだか知り合いになったかのような気持ちになりました。

  年長さんになって「夢」を持つようになりました。その頃の夢は「優しいお医者さんになること」でした。そして今でもその夢に向かって頑張っています。

 保育園を卒業して、「学園木花台小学校」に期待と不安を抱えながら入学しました。小学校低学年の頃は、ほとんどが初めての体験で不安が多かったせいか休む日が多かったそうです。さらに、学校に行く時はほとんど泣いていたそうです。私は長女なので、母も日本の学校のやり方が分からず戸惑っていたそうです。でも、少しずつ慣れていつしか学校が楽しくなり休む日もなくなっていきました。勉強に発表会、そして運動会を通していつの間にかたくさん友達もできました。

  2年生の3学期、私はインドネシアに帰国する事になりました。友達や先生などたくさんの人と別れないといけないと思ったら涙が止まりませんでした。友達の皆からも「ファティマちゃん行かんで!宮崎にいようや」と声をかけられましたが、どうしても帰国しなければなりませんでした。とても悲しい別れでした。

  インドネシアでは、日本で過ごした日々とまったく違って新しい発見があったり、日本では学べなかったインドネシアの文化や宗教関係の事がたくさん学べました。今では2つの文化をうまく取り入れながら生きています。

  インドネシアで2年間過ごしたある日の事、母はとても嬉しそうな表情で「また日本に行くチャンスが来たよ」と私に伝えました。その時の喜びは忘れられないものでした。

  再び日本に来て懐かしい友達と再会をはたしました。学年はもう5年生でしたが、2年のブランクがある私にとって一番大変な教科は国語でした。学園木花台小学校には外国人の生徒が多かったので語学力を補いたい生徒のために「日本語教室」がありました。私は国語の時間はいつも日本語教室に行きました。漢字を覚えるのはとても大変でした。でも6年生になってからは、ある程度まで上達したのでもう日本語教室には行かず、その代わり、国語の授業では隣に分からない事を教えてくれる日本語教室の先生に来てもらっていました。

  宿泊学習に修学旅行、米作りに発表会そして運動会と小学校の頃の思い出はたくさんあります。大変な行事もありましたがどれもみんな今ではとても楽しい思い出になりました。こうして、小学校でもたくさんの事が学べました。

  中学生になり「木花中学校」に入学しました。新しい生活にはなかなか慣れなかったけれど、学校生活を送るにつれて少しずつ中学生という実感がわいて行きました。正直に言うと中学校に入学するのは、外国人だからいじめられないかな?とか、友達と仲良くできるかな?などとても心配で不安が多かったです。小学校の頃の私は、とても恥ずかしがりやで人前で発表するのが精一杯でした。でも、それが中学生になったら私自身がまるで別人かのようにとても前向きに何事にもチャレンジしていました。その事には、自分でもとても驚いていますが同時に嬉しく思っています。

  中学生になって初めてのクラス、3分の1ぐらいはすでに知っている友達でしたが、あとの3分の2は知らない人でした。自己紹介の時、私が日本語で話をしていたら私を知らない人たちが予想外の出来事にとてもビックリしていました。それからの学校生活では、私が抵抗なく日本語を話すのでたまにハーフだと間違えられていた事もありました。「日本語上手だね。」とか「もう日本人じゃん!」と言われるのは、とても嬉しかったです。友達作りは意外に簡単でした。私から話しかける時もあれば、相手から話しかけてくれた時もありました。時には友達と喧嘩する事もありましたが、最終的には仲直りをし、そこから友達関係を大切にする事を意識し始めるようになりました。

  中学校では学級内で「役員」を決めます。一番大事な役員は総務委員会で、委員長・副委員長・書記を決めなければいけません。私は書記になってみようかとても迷っていました。でもその時に、「迷っていてもどうしようもない」と思い勇気を出して書記に立候補しました。なんだかんだ迷っていた私ですが、無事書記になれました。とても嬉しかったです。

  中学生になって勉強に対する意識がとても大きくなりました。なぜなら、テストの結果で番数が出るからでした。一番最初のテストではとても悪い番数を取って家に帰った途端涙が止まりませんでした。悔しくて悔しくて仕方がなかったからです。父から「大丈夫、あと少し勉強すればいい成績が出るから。友達との成績を比べなくても良い、全力でテストを受ければ良いから。」と励ましの言葉を貰いました。その直後から成績を上げようと必死で勉強をしました。その次のテストでは、番数が30番ぐらい上がりとても良い番数を取ることができました。とても嬉しくてインドネシアに居る祖母にも伝えました。今でももっと良い番数、成績が出るように勉強を頑張っています。

  中学校生活にも慣れ、1年生後期がスタートしました。学校では「新生徒会役員」を決める時期になりました。1年生からは副委員長と書記の2名を選ぶ事になっていました。そして11名の1年生が立候補しました。私は立候補するかどうかとても迷っていました。悩んで、悩んで私が出した結論は、別に当選できなくても、大切なのは勇気を出して生徒会役員に立候補する事でした。選挙運動期間には、自己PRをしたり、朝登校時刻に正門に立ち朝の挨拶運動を行いました。自己PRでは、外国人の私でも皆と変わりなく何でもできる、学校をより良くする意欲も多いにあるという前向きな姿勢をたくさんアピールしました。ポスターを描くのもとても大変でした。とても大変だったけどやりがいがありました。そして選挙の日がやってきました。私はとても緊張し焦っていましたが心の中で自分を励ましました。「大丈夫。この体験は、自分を変える大きな第一歩の為だ」と。その結果、自分の演説の出番が来て私は落ち着いて発表する事ができました。演説が終わってからはとても気持ちが楽になり安心しました。今でもその演説で何を言ったか覚えています。生徒会役員当選者発表の日、掲示板を見ると1年生からの当選者2名の中に私の名前は載っていませんでした。私は落選しました。でも、その覚悟は最初からしていたので落ち込むことはありませんでした。けれどある日、学校から帰宅したときの出来事でした。家に入った途端に電話が鳴りとてもビックリしながらも電話に出ました。電話してきたのは担任の先生でした。私は先生から、もう1回学校に来るように頼まれました。私はまた学校に戻り担任の先生に会いました。すると先生が「生徒会の事なんだけど、ファティマさんは生徒会全校学習副委員長に選ばれました!木花中学校初の外国人生徒会役員かっこいいね。頑張って!」とおっしゃいました。先生の言葉を聞いた私はとてもビックリで嬉しい気持ちになりました。なぜなら、副委員長と書記にはなれなかったもののまさか生徒会全校学習副委員長になれるとは思っていなかったからでした。嬉しい余りに家に帰って即家族みんなにそのことを知らせました。その時両親は、何が何だか分からなかったらしいけど、「おめでとう。」という言葉は言ってくれました。生徒会に入って生徒会がどんなに大変なのかがよく分かりました。今その事を振り返ると、新生徒会に立候補する勇気は私にとってまさに「自分を変える大きな第一歩」でした。

  この体験を通して、人前に出るのが恥ずかしくて嫌な人でも、努力して勇気を出せば変われるということが学べました。これからも自分の良い所が増えるように自分を変えていきたいと思っています。
  新学期になって私は2年生という先輩になりました。クラス替えもあり、また新しい仲間と1年を過ごし始めました。2年生になるとある不安が大きくなっていました。それは、あと1年でインドネシアに帰国する事でした。日本に来た時から私はいつかはインドネシアに帰国しなければならないと分かっていました。残り1年、たくさんの思い出を作ろうと1日1日をむだにせず私は友達とたくさんの思い出を作ってきました。
  友達といる時はあえて私が帰国するという話はしません。たとえ友達は知っていても・・・。私にはいつも一緒にいる仲間がいます。小学校六年生の頃同じクラスになってから休み時間、休みの日はいつも3人で過ごしてきました。3人でいると話がとても盛り上がって最高の居心地です。今年も夏休みに入って私たちは思い出作りをしようといろんな所へ遊びに行きました。ある時帰り道で親友が私に「どんなに遠く離れても、心はずっと一緒だから」と言ってくれました。その言葉は心の中でいつまで響いていました。最高の思い出です。「親友」は私にとってとても大事な存在です。インドネシアに帰るまで残り約8ヶ月です。この限られた時間を大切に使っていこうと思っています。

  私はこの日本の宮崎でたくさんの事を学びました。私はまだちっぽけな子供だけど、人一倍たくさんの出会いと別れがありました。出会いはいつも私を大きく成長させてくれる貴重な体験です。別れの時が来たら「さよなら」は言いません。別れる時は「また会おうね」と言います。これまでの出会いそして別れから、またたくさんの事を学びました。生きる力、友達関係、絆、感謝の気持ち、何事にも勇気を出してチャレンジする事、思いやり等です。私は、この日本で少しずつ成長しました。この成長をこれからの生活に活かしていきたいと思います。

  私の第2の故郷、日本の宮崎、心から「育ててくれてありがとう」

 



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