かつて、イタリアの探検家であるマルコ・ポーロは、彼の著書「東方見聞録」において日本を「ジパン」と呼んだ。 「ジパン」とは、古代イタリア語で「黄金の島」という意味だ。現在でも、日本のローマ字表記である「JAPAN」で使われている。 13世紀のモンゴル帝国皇帝クビライ・カアンは、マルコ・ポーロをインド-アジア間の貿易長官として召し抱え、この幻想の「黄金の島」を征服するために数回、戦闘部隊を送ったが、結局「神風」に遮られて失敗した。 このように、日本は昔から接近するのが容易でない未知の世界であり、多くの国々の憧憬の対象であった。今日でも「JAPAN」 の語源が持つ意味は有効だ。 いや、現在の日本は、黄金以上の価値を持っている国だと言えるだろう。 世界最大の経済大国と呼ばれ、東京は超巨大都市の代名詞になり、日本産自動車は世界中に輸出されている。 それだけでなく、文化的にも日本は世界に大きな影響を与えている。 ハリウッドでは、サムライ精神を謳った映画が製作され、フランスの若い人々の間では「寿司」がトレンディーで、健康食品として流行っている。 日本という名称は、商品性のあるブランドとなり700年前と同じように、数多くの外国人らを誘惑し続けているのだ。
「最も近いながらも、最も遠い国」。私の母国の韓国では、日本に対して、いつもこのような表現を使う。この表現は、日韓の歴史的な傷の事情に起因している。韓国人の中には、日本に対して、たとえかなり好意的な感情を持っていたとしても、手放しで「好きだ」とは言えない感情と社会的雰囲気がある。それゆえに日本に対しては、ささいなことでも、ことさら批判的になる一方で、他の国と同じように日本製品を愛し、決して無視することはできない存在として意識し続けている。韓国政府は、国民の日本に向けられた憧れに対する憂慮を、制度として現わすこともした。 私が高校一年生だった2002年に「日本文化完全開放」が実施される前までは、公の場所で日本の映画や日本人歌手の音楽を見たり聞いたりすることは禁止であった。夜、ラジオをつけると海を越えた電波によって日本の歌が聞こえてきたが、何か聞いてはいけない特別な音楽のような気がしていたし、 韓国で放送されていた日本のアニメーションは、あたかも韓国製であるかのように装われていたから、誰もがもうすでに日本文化を十分に享受しているとは感じていなかったと思う。このように日本文化は、距離的には最も近いところに存在しているが、最も接するのが難しいものであった。日本に対する「わけのわからない国」だという批評や、日本の有名な建前と本音に対する話などは、日本に直接行ってみたことがない人々の口から口へ伝えられ、より否定的に解釈されて私の耳に入れられ、偏見という壁を高く積んだ。私の頭の中では、相変らず日本は憧れの対象である同時に、危険な部分も持っているミステリな国として位置づけられていた。日本は、マルコ・ポーロが考えたように、私たち同世代の若者にとっても「黄金の島」であった。「黄金」は、強烈な輝きを持ち、人々を魅了するが、その激しい煌きゆえに恐れられもする。なんとかして手に入れたい。私は、ますますこの不思議な「黄金の島」を、実際にこの目で見てみたいという気持ちになった。そして日本を理解することは、同時に韓国を理解することだと確信するようになった。
「黄金の島」の魅力に惹かれた私は、2007年の春、ついに日本の別府という地域の大学に入学するようになった。それからすでに2年が経つ。私がこの2年間、実際に、見聞きした「黄金の島」の正体は、いったいどのようなものであったのだろうか。
私が日本にきてから3日目、留学生活に必要なものを揃えるために、初めて大型スーパーに行った時であった。日本に来るのは初めての私にも、スーパーの形態や物を買う方式は韓国のそれとあまり違わなかったので、日本語はほとんどできなかったが、あまり心配せずに買い物にでかけた。韓国からきた私にとって、カルチャーショックなんてないだろうと考えていた。しかし、支払いをしようとレジに並んだときに気づいたことがあった。学校の春休み期間中だったせいか、大学生と見える若い女性がレジに立ち計算を担当していた。彼女の胸に付けているバッジの「新人研修中」という文字から、彼女が仕事を始めたばかりだということが分かった。彼女は、私がのせたカゴから商品を取り出して計算しながら、ずっとぶつぶつ何かを言っていた。それは数字のようだった。まもなく、それがお客さんの便宜のために、商品一つ一つの値段を言っているのだということに気づいてとても驚いた。私が購入した商品は50個近くあったのに、彼女は休まないですべての商品の値段を読み上げ、計算を終えたからだ。さらに「ありがとうございます」と小さく微笑んでカゴを渡された。私はそのカゴを受け取りながら有難いという思いより、なぜこのように小さいことにも、こんなにも熱心であろうかと思った。韓国ではもちろん、他の国でもこのように熱心なレジは見たことがなかったからだ。かつて旅行に行ったイタリアの大型スーパーのレジでは、椅子に座ったままで、計算中にも時々自分にかかってきた電話を受けるのに忙しかった。ひょっとするとこの女性のアルバイト生は「新人」だから、このように熱心に仕事をしているのだろうかと疑った。しかし、その推測も日本で暮らすうちに、外れていることがわかった。 美容院でも劇場でも、どんな店に行っても、店員らの勤務態度や接客態度は他の国と比較して、いつも驚くほど立派だったからだ。これは単に顧客に最上の商品を提供しなければならない店員としての義務のためなのだろうか。私は違うと思う。その答えを、学校のサークル活動で見つけることができた。
私が留学した大学は、日本人学生だけではなく、世界の80カ国以上の国々からやってきた留学生が共に学ぶ国際大学である。私が加入したボランティアサークルにもいろいろな国籍を持つメンバーがいた。しかし、日本人の学生たちは、どの国の学生よりも、最も熱心に活動した。ミーティングも頻繁に行われたし、2時間以上に及ぶこともザラだった。試験の直前でも参加率が高く、どうすればサークル活動がもっと円滑に行われるかいつもディスカッションしていた。新入部員の勧誘から、貧困地域に関する勉強会など、日本人学生たちは、そのサークル活動に情熱をすべてかけているかのようだった。私も含めて外国人留学生たちは、そのような日本人学生たちを見て、成績やお金と関係ないサークル活動にどうしてそんなに熱心にすることができるのか疑問に思った。「どうしてあんなに真面目に活動するのかな」と質問した私に、学生寮のルームメートである日本人学生は「ただ各自の仕事だからだろう」とだけ答えた。どうしてそんな当たり前のことを気にするのかという風な口調だった。私は今でもこの時のルームメートの答えが完全に理解できてはいない。彼はそのサークルのメンバーではなかったから、上手く説明してくれなかったのかもしれないし、やはり私が外国人だから理解し難いのかもしれないと思ったりもした。しかし、アルバイトのレジ係の熱心さにも現れているように、日本人が各自の仕事に最善を尽くすということだけは、確かに理解できた。そしてさらに私は黄金を見つけることになった。
学校の休みが終わって新しい学期が始まるころ、地元から戻ってきた学生たちはみんな自分の地元から持ってきたお土産を交換することに忙しい。私も冬休みが終わってから、福岡出身の友人からは豚骨ラーメンをもらったことを皮切りに、京都出身の友人からはヤツハシ、広島出身の友達からはもみじまんじゅうなどいろいろな珍しいものをもらった。食べ物だけではなく、彼らが休み中に地元で何をしていたか話を聞いて、日本の各地方にはその地域を代表する祭りや土産の品が必ず存在しているということを知った。私は日本人の学生たちが、帰省や旅行したときに律儀に色々な地方の特色があるお土産を買ってきて、お互いに交換するという慣習よりも、日本には地方ごとに多くの種類の土産の品があるということのほうに非常に興味がわいた。外国人が知っている日本の地名は、東京や大阪が代表的で、それ以外の地方都市はあまり有名ではないと思ったのに、日本の47都道府県の一つ一つに、それぞれを代表する土産の品があることに驚いたのだ。それに比べると韓国には各地域を代表する商品が少ないのではないかと感じた。去年、韓国の我が家に日本人のルームメートがホームステイに来たことがある。韓国での観光を終え、帰国するときに友人らにプレゼントするソウル地域の代表的な土産物を推薦してくれと言われたが、韓国人の私の頭には、いい品物が思い浮かばなかった。デパートに行っても市場に行っても「これがソウルだ!」と言えるものがないような気がした。これを見れば、ソウルを思い出すことができるというような、ソウルならではの特産品があまりないと感じたのである。日本と韓国のこの差はどこからきたのだろうか。
その答えとして、大分県で1980年から始まった地域復興運動の一つである「一村一品運動」が上げられるだろう。大分県に留学した私は授業でこの地域興し運動について学んだ。「ローカルにしてグローバル」というスローガンのもと、地域ごとに、全世界に通じるものを創ろうという目標を持って提唱された一村一品運動から、私は日本が世界化の波にどのように対応したかを想像することができた。米国発世界化の流れにほとんどの国々が逆らうことなく、従順にして外部文化を受け入れるばかりであった時、日本は逆に自分たちの地域文化を磨きあげて、世界に発信できる物を作り上げたのだ。その結果、日本の多様な文化と商品が全世界に広がるようになった。また、大都市だけではなく、人口1万人にも満たないような町や村が、世界に通用する品物を作り上げたことで、日本人が自分自身の文化にどんなにプライドを持って守ろうとしているのかが分かった。どんな小さなことでも各自が与えられた仕事に最善を尽くすという国民性の上に、自分の地域と文化に対する愛とプライドが一緒になって、このように数多くの魅力的な文化があちこちで発達したのだろう。日本人が持つ自分の仕事に対する責任感、今現在、全世界がその魅力に惚れ込んでいるのはないだろうか。
だが私はいつも、日本の良い点だけ見てきたのではない。ある時には、変化にとても鈍いと感じることもあった。 ある日、日本人の教授と食事をする機会があった。その時、教授は、日本学生たちの授業参加態度について話した。その教授は、米国での講演経験を例にあげて、米国人学生たちよりも日本人学生たちのほうが、レポートの提出率が高いにもかかわらず、実際に授業中に発表させた場合、発表する学生たちの人数は、米国人学生たちに比べて非常に少ないと述べた。積極性と、批判的精神が足りないのではないかという意見だった。その原因の一つとして、日本人の国民性にあると言った。日本人の学生たちは、教授という自分よりも上級の社会的地位を持った人が提案する論理などに疑問を提起することよりも、そのまま受け入れる側を選ぶということだ。そのような態度は、上の意見を一方的に受け入れることに慣れているため、ある変化に直面した時の対処能力が低くなるという問題点があると思う。確かに、手続きと集団の和と安定という価値を最優先にした結果、話し合いの時間は長引き、画期的なアイディアはでにくいだろう。 最近の経済危機が、日本をより一層、疲れさしている。 10年前まで、日本が中心になった世界金融界も、中国へシフトし、家電製品業界も韓国へ渡るようになった。この変化に対処するには、日本の意思決定システムはとても遅いものに感じる。
私が日本で過ごした期間の2年半は、長いようで、まだまだだとも感じる。重要なのは、私が日本で過ごした期間、何を見聞きして習ったのかだ。今、あなたは日本で何を学んだかと聞かれると、私は自信を持って答えることができる。世界に輝く「黄金の島」を作り上げた日本人について私は学べたと。私が見た日本の今のような成功には理由があったと思う。日本には、誇りをもって各自の位置で最善を尽くす人たちがいた。そして、その理由は他の国にとって教訓になることができると思う。小さな仕事にも手を抜かず、最後までやり抜くこと。一番簡単で基本になる真理かもしれない。しかし、西洋化され、集団より個人がもっと重視されている現代社会では一番、守りにくい教訓であるとも言える。私が世界経済大国と言われる日本で会った日本人は皆、自分の仕事にプライドを持って最善を尽くしていた。このように、日本人一人一人の努力があったからこそ、今の「黄金の島」があるのではないだろうか。黄金の光の憧れに引きずられて、日本での留学を決めた私だったが、この2年半、私は日本の生活様式、人々の心がけから、多くのことを学んだ。私がその正体を確かめたいと思っていた「黄金の島」JAPAN。「黄金の島」では、黄金ではなく、その黄金を作る人々が輝いているということに気づくことができた。
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